アンドレ・チカチロは、1936年にウクライナ共和国の田舎町で、生まれた。
チカチロが生まれたその時期は、飢饉後でその地方は、全て貧しい生活だったが、
チカチロの父が収容所にスパイとして囚われていたため、一家は更に貧しかった。
チカチロは生まれたときから、先天性の脳障害を持っており、極端な近視と、
性的に不能な状態であった。
そのことが、後に彼が猟奇に目覚めるきっかけでもあったように思える。
幼い頃から、生殖器に(膀胱含む)に障害があったためか、夜尿症を患い、
ベットを共有していた母親からは、厳しく折檻されたりもした。
チカチロの地方では、飢饉のため食料が乏しく、兄が病死した際、近隣の住民らが、
その死体を食料にしたと母や近所から、聞かされて育っている。
それはまた、彼の犯罪の内容にも反映されるトラウマとなった。
チカチロは、障害はあったものの、体は大きく、また記憶力はずば抜けてよかった。
勉強はトップクラス。
チカチロは、自身にコンプレックス(障害のため)
抱いており、実際、
勉強が彼の唯一の自慢であり、生きる目標でもあった。
貧しく、近所に偏見の目で見られていた一家にとっても。
チカチロは、自身の誇りと、今の状況から脱却すべく「モスクワ州大学」を受験するが、
残念ながら、不合格となる。
もしも、合格していれば・・・というのは、いまさらの話だが、この件はチカチロの自尊心を砕き、今後の人生を失墜させていくこととなる。
コンプレックスの強かったチカチロは、女性にも晩生であり、社交的でもなかった。
しかし、結婚する前に妹の友人である13歳の少女に暴行を働こうとして、失敗。
その後、付き合った女性との性交渉にも失敗し、普通に女性と性交渉を行うことは、
不可能だと考えていた節も、うかがえる。
そんな、兄を心配し、妹は自分の友人を紹介する。
後に二人は結婚。
2人の子供をもうけている。
が、不能な障害を抱えていたチカチロにとって、夜の生活は苦痛というより苦行だったと語っている。
コンプレックスと反して自尊心の強かったチカチロが、勃起不全である生殖器で、
通常の性交渉を試みるのは精神面でも苦悩したに違いない。
結婚して、チカチロは通信教育で大学の教育課程を習得し、念願とも言える教職員の職につく。
頭も良い、チカチロに周囲(学校関係者)も次期、校長の一目を最初は置いていたが、
実際は悲惨なものだった。
授業は散々なもので、声も小さく威厳のなりチカチロを生意気盛りの子供たちは馬鹿にした。理想と現実の狭間で、チカチロの自我は段々と崩壊していった。
自慰行為に耽るようになり、言動や行動も常軌を逸脱したものとなっていった。
気弱な女生徒を呼び出し、体を密着させたり、暴力を振るったりと犯罪の序奏行為をし始めるのもこの頃である。
自身の性へのコンプレックスが、歪み、それがいつしか、性への執着となって現れている。
少年少女への執着もこの当時より目覚め初めていた。
「セクハラ」教師として奇行を見せ始めていたのだ。
この事件や奇行、そして、授業態度を含め、彼は別の学校(男子校)に転任させられる。
そこでも、彼の奇行はエスカレートするばかりだった。
寄宿舎に忍び込み、寝ている男子生徒の性器を咥えたりしたのである。
結局、教師の仕事は退職させられる。
その後は、自身の教養を「犯罪」のみに使うような、人生を辿ることとなる。
出張の多い、工場職についたチカチロは、幼児に猥褻行為や、
売春婦を買いあさりながら、1978年1回目の殺人に手を染めてしまう。
9歳の少女を言葉巧みに、古小屋へ連れていき、強姦しようと試みた。
チカチロの大きな体で少女を圧迫し、気絶させてことに及ぼうとしたとき、
彼女の小さな体では、チカチロを受け止められなかった。
そして、その行為の代償としてナイフを少女に突き刺したことで、オーガニズムに達したのである。
赤い殺人鬼「チカチロ」が現れた瞬間だった。
少女を滅多刺しにしたあと、しばらくはチカチロは後悔と恐怖に震えていた。
しかし、実際は、全く罪もない男が死刑となっただけであった。
恐怖が消えうせたのは、1982年。
チカチロは2度目の殺人を犯す。
この殺人から1990年まで、出張と称した殺人行脚を続けていく。
狂気は猟奇に変わり、いつしか、「殺し方」を考えるようになっていく。
それはまさに、男性が女性をどう喜ばせるかと考えるのとは対照的に、
どう苦痛を与えるかということに固執していたといっていい。
実際、チカチロは、一人の子供、殺人ができる場所、一目につかないところであれば、
どんな子供、どんな関係でもお構いなしに殺人を繰り返す。
それに性別は関係なかった。
生きたまま死体を解剖し、いかに長く苦痛を与え、いかにその状態を記憶し、
家に帰って自慰行為のネタになるかを追求している。
時には、昔なじみの女性を殺し、一緒にいた子供もその母親の遺体のすぐ側で、
殺害している。
必ず、カニバニズムに及びながら。
このような、殺人をチカチロに長きに渡りさせ続けたのは、
チカチロの体質にもあった。
「血液型」と「精液」が一致しないという、特異な体質だったのである。
今では当たり前のDNA鑑定等が、当時閉鎖的だったソ連の中では、
行われなかったのだ。
また、この事件においては、連続殺人犯はソ連にはいない。
という、奢った考えが元になっており、その考えのもと冤罪で何人かが裁かれる形にも
なった。
怠慢による間接2次的殺人といってもいいだろう。
その上で、結果、1回はチカチロに容疑者として近づきながら、
放置する結果も残している。(職務質問の際、大量のナイフなどを所持していた)
だが、このような悪鬼を永遠に野放しにするわけは到底なかった。
終わりは、1990年。
志気を改めた警察は、不審人物の再確認と、血液型と体液の違いを認識する。
その上で浮上したのが、チカチロである。
チカチロは警察にマークされていたその当時も、一人になる子供を物色していた。
そして、任意同行の末逮捕。
自白では、56人の殺人。
チカチロはサイコパスらしき人間性で、全てをすぐさま認めた。
(精神鑑定が考慮されると思ってのことだと思われる)
立件されたのは52人。
チカチロは元来の記憶力のよさで、被害者を全て覚えていたとされている。
裁判では、しらみ予防のため頭髪眉毛などをそり落とした姿で登場し、
まさに猟奇を絵に描いたような殺人鬼の姿として残っている。
(実際殺人を行っていたときは、真面目で堅物そうなメガネをかけた男性)
復讐防止のための頑丈な檻の中、時には自慰行為をして退場させられ、
泣き叫ぶ遺族に罵声を浴びせたりもしている。
逮捕され、抑留されたときから、本当の精神分裂を起し始めていたのかもしれない。
結局、心神耗弱は認めらずに、起訴された52件のうち、51件の殺人で有罪となった。
檻の中で、遺族や自身に罵声、奇行、意味不明な行動を起していた殺人鬼は、
「死刑」判決を言い渡されると、大声で喚き、失禁し、慌てふためいた。
哀れな猟奇殺人鬼の末路である。
1992年、猟奇の塊であったチカチロは銃殺刑により処刑された。
自身の「性」や「生」への執着より、被害者の「生」や「性」を重んじない最低な人間である。
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